ペンネーム NAGAO
前回は、『町野村志』(輪島市町野町 近辺の寺や旧家についての記録がまとめられた大正時代の書物)の記述について※信憑性・可能性を、独自に調査した結果で解釈してみました。
※【『町野村志』江尻寅次郎 石川県鳳至郡町野村 町野史談會 大正15年発行】
この本が何の古文書を参考に書かれた物であるかは、本の冒頭に記録されていました。
それら古文書の調査を図書館で依頼したのですが、現時点では見つけることはできませんでした。
今回は、「長尾為景能登国渡来説」について、その「能登との繋がる必要性・理由」はあったのか?という視点から、通史をベースにして想像・推理してみたいと思います。
その「必要性・理由」に根拠があるならば、『町野村志』の記述の信憑性もより上がってきます。
【ちょっとひとりごと…】
「長尾為景能登国渡来説」の信憑性が上がれば、自分につながる可能性も上がります。
このことを調べ始めたきっかけも、我が家の口伝が信用できなかったからです。
口伝といえば大げさですが、越後長尾との関係は子供のころから聞かされていました。
ですが、何だかうさんくさい話と思い、「桃太郎」的な昔話のノリで聞いていました。
調べ出してみたら色々な「ネタ(根拠?)」が出てきてビックリしています。
この「ネタ」ですが、実はかなり必死で調べたので、昭和(私の祖父)までつながってきます。
みなさん、旧家に伝わる昔話は案外侮れないかもしれませんよ?
それでは続きですが、読んでもらえたらうれしいです。
~能登と越後の繋がり【根拠①】~↓
中世においての能登畠山家と越後長尾家(為景)の関係、つまり能登と越後の繋がりを調べてみました。
その結果、かなり深い関係にあったことがわかりました。
為景(越後守護代)は上杉家(越後守護)に対する下剋上により、※三条長尾家(長尾為景)を事実上の越後国主にまで高めたことによって、越後国内の軋轢や反長尾家を掲げる武家・豪族等を生む結果となります。
※当時の越後(現在の上越市)には、三条長尾、上田長尾、古志長尾(栖吉長尾とも)の3家を筆頭(その他、分家も多々あり)に存在し、中でも三条長尾家が越後守護代職を世襲し、越後府中に居住したため、この家を府中(府内)長尾家とも呼びます。
史実でも、上条定憲(越後守護上杉家分家、上条城城主で上条杉家当主。反長尾為景派の代表格であり為景を隠居に追い込んだ張本人?)に命を狙われていたとされる説も…?
そして強引に国主となった越後長尾家(為景)は、西暦1520年代に越後、越中、能登と三国同盟(畠山家、神保家、椎名家、長尾家)を結び、「能登守護家である畠山義総は加賀・能登・越中の政治について、長尾為景と協議の上で行った」という記録が有り、特に北陸において能登畠山家と越後長尾家の政治的権力は強く、同時に畠山家と長尾家の関係が深かった様です。
拡大解釈(あくまで推理)するなら、上条定憲等の『反 為景派』から逃れる為に、為景は自ら天分5年に死亡したと周囲(反 長尾派)らを欺き、最も安全な場所である能登の畠山家を頼り渡って来たのでは…?
上杉家から「長尾為景は二代の主君を殺害した天下に例のない奸雄である」と評され、下剋上により国主にのし上がった自分より、穏健派である嫡子、長尾晴景に家督を相続した方が国を統治しやすいと考えたのではないだろうか…?
実際、晴景は父の為景と異なる穏健な政策をとり、領内の国人との融和を図りました。
そして越後における争乱を鎮めることにはある程度成功しています。
つまり、為景は晴景を支え、陰(能登)から指示していたとも考えられるのでは…?
『上杉氏年表』や『定本上杉謙信』にあるように、「晴景に家督を譲った後も実権を握り続けた」とはこの事なのではないかと私は考えています。
ここまでが「能登との繋がる必要性・理由」の【根拠①】です。
次回も「能登との繋がる必要性・理由」についてですが、少し視点を変えて調べてみた調査結果、【根拠②】を書こうとおもいます。
中世においての社会的背景から、能登と越後の繋がりを考えることで、もう一つの「長尾為景能登国渡来説」の根拠となりえる?と思います!
【次回へ続く】
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