今日は真面目なお話です。
先日、娘(小3)の学校の教師を交え「地区懇談会」なるものがありました。
懇談会では地区に住む小学生の保護者と、学校側から教師が数人集まって年間行事や生活態度などを話し合うのですが…
いらっしゃった先生が、少し精神的にきてると話題になっている先生でした。その先生は朝礼で生徒にこう言ったそうです。
「先生は今日も交通事故に遭うようにお祈りしました。でも交通事故にあえず、今日も学校に来なくてはなりませんでした。先生は、毎日、どうしたら学校をお休みできるか考えています。もう学校に来たくありません。」
その先生が受け持つ4年生の教室は、いわゆる学級崩壊がかなり進んでいて、父兄の集まる授業参観までもが、通常に進められないところまできていました。
教室から出て行ってしまう子、取っ組み合いの喧嘩をはじめる子。様々です。
父兄の間では噂話は絶えません。
懇談会で初めてお会いしたのですが、とても緊張されているようで、顔は引きつり気味。こちらまでつられて引きつりそうでした。でも、一生懸命でした。
私が子供の頃の教師とは、己を神とでも勘違いしているのではないかという程に、自信家で傲慢でした。その傲慢さには子供心にも嫌気がさしたものです。
しかし、ある意味絶対君主である教師によって秩序が保たれていたのも事実なのでしょう。
体罰を安易には容認できませんが、時として「大人って怒ったら恐いんだな」と思わせるための一つの手段ではあると思います。
少子化が進み、兄妹ゲンカの機会もなく、親とプロレスでもすれば必ず勝ち、孝行爺の頭を叩いて喜ぶ。それが今どきの子供です。赤の他人の教師ごときに“子供と大人の絶対的な違い“など見出すはずもなく、「授業が面白くない」「この前怒った」「顔がキモい」などとくだらない理由で、大人である教師に対して簡単に“NO”を突きつけるのです。
“NO”を突き付けられた教師は…実質上、再起不能になります。
そうなりたくない教師は、「子供が理不尽な目に遭った」と保護者が乗り込んでくるのでは?と、毎日怯えています。
でも…子供が理不尽な目に遭うのは、そんなにいけない事なのでしょうか?
教師だって人間です。虫の居所が悪かったり、体調が悪かったりして当たり前です。
普段なら耐えられる子供たちのおしゃべりが許せない日だってあるでしょう。
そんな時に、どなったり頭を叩いたりする事で「こいつ無茶苦茶だな」「何様だよ」と子供が感じるのは、むしろ良い事ではないかと思います。
一歩外に出れば、金と権力です。金が無ければ空気も吸えず、権力がなければものも言えないのです。その現実に少しでも耐えることができるように、小さなときに処世術を身に付けさせるのも大人の務めではないのか?私はそう思っています。
もちろん、とんでもない体罰やいじめなどに遭えば、親として黙っていられません。
ただ、そこまでいかない程度であれば、理不尽さに耐えうる精神を持った人間になって欲しいと私は願っています。(限られた寿命と財産しかない私にはそれくらいしかできないからでしょうが…)
ある日、娘が居残りテストで帰りが遅かったので、学校に乗り込み様子を覗き見してみたところ、なんと馬鹿娘、隣の席の馬鹿友とおしゃべりに夢中になっていました。頭にきた私が教室のドアを開け「くっちゃべって無いでさっさと終わらせろ!ボケェ!何時やと思っとんのじゃ!」と怒鳴りつけると、隅っこに居た先生が「すみませんお母さん!すぐ終わらせますので!」と謝るのです。
何故子供の前で私に謝るのでしょう。悲しくなりました。
教室から先生を呼び出し、居残りテストは教師にとってある意味、残業である事。このテストが終わってからも他の採点や明日の授業の用意をしなければいけない事。にも関わらず、居残りテストをしてくれるのは学校及び、先生の善意である事。それらを理解して、子供に対してだけ怒鳴った事をお話ししました。先生が泣いてしまったので、私まで少し泣きそうになりました。
すると、ちょうど教室から「終わりましたぁ」と子供の声がしたのです。そして、先生が慌てて私のもとに連れてきてくれたのが、居残りテストをしていた中でも一番どうしようもなさそうな男の子だったので、「ごめん先生。この子違うわ。あの上品なのがうちの子」と指差すと、心底信じられないといった風に先生が笑うので、「なんだかなぁ」と思いつつも、“落ち”がついて良かったな♪と思えました。
もう少し、自分たちと同じ“働く大人”として“教師“を見てあげてはどうでしょう?
そうすれば、悲しい学級崩壊も防げ、子供を子供として大人が育てられるのかもしれません。
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