選挙なんて関係ないとか言っていられる歳じゃないので
もうすぐ選挙が始まる。けれど私は投票をしたことが無い。私がまだ投票権を持っていない頃、「こんな大人にならなりたいな」とおもう人がいた。人格者で有名なその人は弁護士をしていて、時には菓子折り1つで長い裁判を闘ったりもしていた。そしてある時その人が、こんなことを私に言ったのだ。
「僕はね。今迄投票をしに行かなかった事は一度もないんだ。でもね、最近はもっぱら無効投票だよ。白紙投票ってやつ。君も選挙権を得たら慎重に決めなさい」
その人は自分の信念としても、消去法などで投票はしたくないし、無効投票は一種のストライキの意味も込めていると語った。仮に適当に投票をし、万が一にもその候補者が当選しようものなら自分の無責任さを許せないだろうとも言っていた。
数年後、私は成人し選挙権を得たが、投票所には行くことすらなかった。投票しないことにも意義があるのだ。選挙期間しか顔を出さないような候補者に何を託す?誰が当選しても大した改革など望めない。期待していない。全てがくだらない…私はそんなふうに何年も何年も選挙を無視し続けた。
しかしある日、本当に何のきっかけもなく「あれ?」と思った。一時期だが私は食事に興味が無くなったことがあるのだが、そのことと無効投票のことがリンクしたのだ。
食事に興味が無かったとき私を生かしていたのは点滴で、口から物を食べる行為のすべてがどうでもよかった。食べたくない訳ではないので、誰かが無理やり口に食べ物を入れてくれば食べたが、食べる量よりも食べない時間の方が圧倒したのか、やがて腸も動くことを止め直ぐに寝たきりとなった。その時の私は【食べる権利】を放棄しただけで、【食べる義務】を知らなかったのだ。
【食べる権利】は簡単だ。食べたければ食べればいいだけ。問題は【食べる義務】なのだが、簡単に考えれば食べなければ他人に何かしらの迷惑をかけると言うこと。病気になれば治療費もかかる。仮に自分が裕福で治療費など屁でもないとしても少なくとも何%は日本国民の税金だって使われる。死ねば単純に家族も悲しむだろう。もっと別の言い方をすれば、髪を伸ばしたければ、髪を洗え。洗わなければ悪臭を放ち周囲に迷惑だ。髪を伸ばす権利の裏には髪を洗う義務が発生する。といった感じだろうか。
何事も【権利と義務】はセットだと思う。
もしも選挙が日々の食事のメニューだと考えたらどうだろう?
「こんな物を食べるくらいなら食べたくもない。食べさせたいならもっとましなメニューを用意しろ」
それでも良いと思う。むしろ同じ考えだ。しかし、いつまで食べないつもりだろうか。権利の放棄は簡単かもしれないが、義務の放棄は簡単ではない。そして何より、実際にどんなまずいメニューでも食べている人も居る。動物に至っては排泄物すら食料にする物もいる。
「そんな下等生物と人間を一緒に考えるのは極論だ」と言われるかもしれない。だが、選択物は下等であっても行動は下等ではない。何故なら、生きるために他者が不要とする物を取り込んで種を繁栄させてきたのだ。彼らの行動は下等どころか、もっとも身近で食料として競争率の低い物を効率よく利用していることから見れば高等ともいえる。
まずそうで、さらには栄養すら無さそうなメニューであっても生きている限り、食べなくてはいけない。食べて「まずい!」と本気で腹を立てなければいけない。何年も同じようなメニューかもしれない。死ぬまで変わらないかもしれない。しかし、真の【まずさ】は食べた者にしか語れないのだ。ゲテモノ料理などでは食べる時の度胸も必要になる。それに意外にもゲテモノ料理には、味も栄養価も申し分ないものが多いのだから、避けては通れない。
これからは【まずそうだから食べない】ではなく、【凄くまずいけど○○を足したらましか?】と本物の感想くらい言えるようになりたい。
ここは日本の日本料理店。食べやすいからとハンバーガーを置いても年配者の口には合わない。かといって純和風料理では若者が嫌がる。
味噌汁にヨーグルト。プリンに醤油。食のデチューンも柔軟な発想と試す度胸、たとえ失敗しても材料を無駄にせず完食する責任感の上でうまれたのだ。
情けないが、発想力も度胸も人並み程度の私が、唯一できること。それは食べることくらいだ。なら今年こそは食べて、本物のリアルなまずさを体験してみようと思う。
さて、ここまで書いても実は「今年こそ投票に行く!」と断言できない自分がいます。
自分で自分を論破したところで、長年培われた不信感は払拭できないのです。もし、今年も行かなかったら…。その時この紙は便所紙として利用させていただきますので、ご安心くださいm(. .)m
ひまわり花子
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